在研通信 2007年春号
世界情勢と効果・有効発言

「世界情勢と芸術について」という大きな主題をいただきまして、ドイツベルリンから、日々感じますことを報告いたします。
 私は、ここでアートマネージメントの仕組みを勉強させていただいています。研修先はありますが、現代という時代の断面が私のグランドともなりますので日々経験しそこで感じた事を調査資料としております。私のテーマは、日本の美術をいかにヨーロッパで紹介できるかというもので、日本の文化ベースとドイツを含めた西洋の文化ベースを比較しつつ、どこを切り口として切り込めるかということを探している、と簡単な言葉ですがひとまずはまとめられるかもしれません。

私はここで、グローバリゼーションの中、西洋を研修先として選びました。これは自然科学の分野にもいえますが、やはり美術も西洋中心であるということを否定できないからです。「美術史の創作」は、西洋から来たのだと、そして今の美術の流れもその流れの上だということの自覚によりこれを基本にしています。といいますのも、自然科学の例を先にとりましたが、どこのだれにでも通用する、普遍的公式といったものを作ったのは、キリスト教文化圏の西洋近代社会でありました。それは美術史にも通用するものだと推測し、それを日々痛感しております。例えば、近代美術がアメリカで花咲きましたことは例外ではなく、アメリカがキリスト文化圏からの移民で成り立ったと考えれば、アメリカである程度の文化要素がそろった時期に美術史の新たな流れが始まったことは、まったく驚くに値しないと理解できます。

さて、ポストモダン以降のヨーロッパにおける近代美術史は、アメリカの近代美術史とくらべこの本流を保っているのかあるいは支流として変わってしまったのか議論があるところですが、とにかく源泉としての強さは保たれていると思われます。

しかしながら、冒頭で指摘しましたように現代は世界のどの国のどの文化圏もグローバル化の波にさらされています。現代社会を見れば分かるように、理性的であるにしろ暴力的であるにしろその主義主張方法は多岐に富みますが特に一神教、なかでもイスラム教からの発言が目立つ傾向にあります。また別の観点からすると、インターネット社会により、宗教、国境、性別、年代、文化を越えた情報収集・発信ができるようになり、まったく無名でも個人という単位で知的な、そして従来のあるいはある地域の道徳を越えてしまっている挑発的な発言ができるようにもなったのも事実です。また、ただただ生きて行くためである市井の人々の都合により私たちを取り巻く環境が破壊され、大きな変動に見舞われているのも現状です。すこし、テーマが大きくなりすぎてしまいました。ここでは宗教や神について、環境問題について自分の思う所を述べるつもりはありません。私が述べたいのは、そのような状況の中での「発言」の方法なのです。

 私が活動の場としている領域、美術に戻らせていただきますと、私は、このようなグローバル化にさらされている現在の社会状況を踏まえ、美術の領域ではどのように発言していくべきかを特に考えています。もちろん、個々で発信しているアーティストは数限りなくいます。しかし、これをより深い意味での「発言」のレベルまで持って行くのは難しい。私の経験からすれば、他の文化圏で彼らと異種の文化を背景とするものに耳を傾けてもらう状態をつくるということは本当にとても困難なのです。なにせ我々は、実に騒がしい中にいるのですから。

とりわけ、主張がものをいうここヨーロッパそして、イスラム教をも含む一神教文化圏が今のところ幅をきかせている世界情勢の中、時節にあわせた的確な表現で「発言」をしていかなければ、結局は、「無能だ」という評価で終わってしまいかねません。また、彼らは自己表現や自己主張を十分行っているのに、我々が受け身ばかりや謙虚の態度をよしとするので、表現を控えているという場合、相手は、謙虚な表現に対して具体的なイメージを掴めないために不安や不信を抱いてしまうということもあります。特に彼らは「発言すること」そのものに慣れているということを肌で感じます。その一方で忘れてはならないのは、彼らにとっては日常の習慣でも、日本の文化というのは「主張」の文化ではないのです。文化の発端が違っているのです。

その日本的な態度をうまく西洋型にして自己発信していくことは、他の文化圏と対峙する前に、まず自分自身の中に相当な困難を伴うことにもなりましょう。また、努力して発言に努めているのですが、的を外してしまってまったく相手の心意に届かないというジレンマも起こり得えます。

「発言」という言葉を何回も使いましたが、芸術を通してであるならば、それは必ずしも「声」でなくてもいいのです。あるいは、芸術にはその他の発言態度が望ましいといっているようなものかもしれません。

欧米が一神教の文化圏だというのが明らかであるならば、日本は多神教の文化圏と定義づけても差し支えないでしょう。長年の日本の文化的な態度と歴史を見ればわかるように、多神教の文化圏の中でも特に日本人はまったく違う意見や態度をも包み込みながら、新たなものごとを生産する能力に長けています。それだからこそ、多神教の文化圏から一神教の文化圏の発言の態度とはまた違う創造された新しい態度と的確な自己表現に努めることができると信じております。

芸術上における「発言」とは、必ずしも「発される声」でなくてもいいのではないかと述べましたが、アーティスト達の活動の場をコーディネートし、美術を紹介する私のような立場では、やはり具体的で言語化された「声」も大事になってきます。

ドイツではこの6月に主要国首脳会議、G8が控えています。宗教的文化圏の視点から見てみますと、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、アメリカ、カナダ、ロシアというこの一神教の文化圏の国々の中で、日本は奇跡的と思えるぐらい首脳会議への参加権を得ています。ここで日本の首相・大臣がどのような態度と発言を見せるのか、これらは十分に私の参考となることでありましょう。夏に中国で控える世界イベント・オリンピックをも目前にして、日本の国技・柔道よろしく先に日本の「効果発言!」「有効発言!」をこちら現地ドイツにて熟視させていただきたいと思っております。

追記:内容につきましては、自らの日々の体験の元に書いておりますが、河合 隼雄、石井 米雄共著の「日本人とグローバリゼーション 」(講談社+α新書)を読み、改めて自分が一神教の中にさらされているという状況を認識、示唆されたことから、参考文献として、ここに付け加えます。


- - - -
TOP
- - - -
Copyright ERI KAWAMURA 2013 all rights reserved.