斎木克裕 現代写真と現代首都 ベルリン
“GOOD LUCK!! 現代美術の一様相” 展カタログ
Tama City Cultural Foundation, Tokyo, Japan, 2002


1969年生まれの斎木克裕は、1996年に東京綜合写真専門学校を卒業して以来、本格的に自分の表現に写真を用いている。彼は写真家であるが、写真をつなげて構成し、あるいは土台をつけた四角いオブジェとして提示し、また場所にあわせ、床、壁に作品を配置するいわばインスタレーションという展示方法を取るなどして、平面的であるという写真のもつ印象を覆す領域で作品に取り組んでいる。

彼のモチーフはとりわけ建物、木々、塀や壁、空、雲、鳥たち、飛行機など風景に関するものである。写真に写される物体は、被写体でなく、モチーフという表現が相応しいだろう。なぜならそれらは事実の記録、あるいは実際を留めようとする写真の基本的な役目から撮影されたのではなく、現実との差を浮き彫りにする要素として撮影されているからである。

「arrangement」というシリーズは、写真のまったく半分の領域を、前景にあるモノトーンの壁あるいは空を、また別の半分の領域を、後景であるレンガ造りの建物あるいは鮮やかな色の塀を配置し、両サイドともシャープに撮影、その後何枚かつなぎあわせた作品である。それは近景と遠景が同時にまったくハッキリとに見えるという肉眼では起りえない現象と、1枚の写真上に現れる景色上の仕切りと写真同士を繋げることによって現れる境という2種類の規則的な線により、現実にはあり得ない創作された風景が広がる。
また、「plane」は、何百人も搭乗するジャンボジェットがただ均一に青く四角い画面のまん中にぽつんと小さく確認できる作品である。この写真は辺を同じ大きさに合わせ、胸丈ほどある立方体の土台に載っており、その見下げながら鑑賞する方法と、全体を覆う青い色のすぐには空だとは気付かせない完璧なシテュエーション、そして巨大であるという理想像からまったく離れている極小ジャンボジェットという要素で成り立つ。この作品が成立するすべての要素は、実世界と対照して存在する。

風景写真とはその土地やその季節、また時間帯とあるいは撮影者がその場へ存在したという事実が意識せずとも写り込む。計算され、操作され、構成され、そして配置された斎木の写真には、いつ、どこで、何を、どんな風に、そして誰が撮ったのかという情報は消されてしまっている。内容の匿名性は現実が写されたという写真の一般的概念から私たちを引き離す。その一方で逆に匿名性が現れているという特徴が斎木克裕という名前と結びつきを強める。

斎木克裕の作品は、2000年と2002年にベルリンで展示された。
ベルリンはご存知のように、ドイツ統一の際、首都になり、都市全体で再開発が進められている。ようやく統一十数年後、政府機関、関係各庁はベルリンに腰を降ろしたところだ。今現在も先進国でもあり、EU圏の中心的存在でもあるドイツ国家にとってベルリンは遅れてきた首都である。町の成立以来ここは、世界に発した多くの歴史を持つ。歴史によった浮き沈みにもかかわらず、元々この町に存在するラディカルな態度、雰囲気によって、常にある一都市としての存在を保ってきた。特に壁があるころの東西ベルリンはかなり特異な性質を醸し出していたが、今では首都としての適切、適格なイメージを持つことも必要になった。

昔から常に中心的存在と役割を担い、発展してきた他のヨーロッパ諸国の首都とは違い、ベルリンは首都として戦前は経験があったにしても、時代は急激なスピードで過ぎ去ってしまった今、そしてなにかすでに満ち足りた印象を受けるこの先進諸国の中から新しい首都が生まれることは、国内外からの期待と注目を集める実験である。それは、壁のあるころの西ベルリンが持っていた、行き場のない不安定さから出るアバンギャルド的実験の延長ではなく、一つの現代首都をつくるという開かれた前進的試みである。世界の建築家により軒並みに次々と建てられたそれぞれの大使館はある一つの目立った象徴であろう。ここでは目に見えるものも見えないものもこの試みへ加わっている。皆が第一に関心があり、この現代首都に求めていることは“eine neue Idee”(新しいアイディア)である。新しいアイディアとは、決して未来に向けての画期的な技術革新や新発明を待望してのことではなく、この一見満ち足りた世界でまだできること、あるいは考え方の新たな方向性の提案、提供が求められている。何か新しいアイディアを求め受け入れる態度は、ここ十数年前から造りはじめられた新しいヨーロッパ主要都市としてのベルリンのイメージにつながっていく。

幸運にも、新しいアイディアを持っているものは、例え外国人であろうとも歓迎され、それを検証される。現代写真、アートに対する斎木克裕の新しい切り口はここで紹介され、伝えられた。
 斎木の提示は、単なる提案以上に、新たなるアイディアを求め、構築していくこの都市の状態と呼応していた。構成、操作による写されるものの時間感覚、場所の喪失、撮影者の不在という斎木の匿名性は、現代という進行形時代を検証することの難しさからくる盲目的時代感覚、歴史都市でありながら歴史を一括するように新しい建物が建てられその場所の意味が紛失してしまった、そしてまだ名もない無名の人たちが活躍する、現代首都ベルリンと重ね合わせられたものだったからである。


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